大阪府、兵庫県を中心に准看護学校、ケアマネ受験を指導する鈴木アカデミー

 

 
 
 
 
 

看護師への第一歩

 

 「看護師になりたい」と思いながら一歩を踏み出せないあなた。自分のおかれた境遇の悪さばかり嘆いていませんか?

 鈴木アカデミーで実際に勉強して、看護師になった方たちのことを御紹介します。皆さんの境遇と似ている方がいるかもしれません。あるいは、こんな境遇でもなれるのか、私でもなれるかもしれないと感じていただいたら、嬉しいです。

 

50歳の受講生

 20年以上前、私の事務所兼教室で看護学校の受験生を指導していたのですが、50歳手前の方(Mさん)が申し込まれてきました。偶々事務所の前を通りかかったら、看護学校受験講座と出ているのを見て、申し込まれてきました。

 その方は、病院で准看護師として働いており、正看護学校に進学したいとの話でした。当時進学コースという内容もよく知らず、お受けしました。

 Mさんはとても熱心で、自宅から教室までかなりの距離があったのですが、自転車で休まず授業に通われました。とても明るい方で、授業のムードメーカーとなってくれました。病院や看護学校のことをよく知らない私に親切にいろんなことを教えてくれました。

 ところがある日、自転車を盗まれるという事件がありました。それからMさんは、単車で通うようになりました。休まずに熱心に通われました。しかし年明けの試験前に一度だけ休まれました。

 あの阪神淡路大震災のあった翌日です。試験が近いことから、その日だけは無理をしないで休まれたそうです。

 Mさんは、努力の甲斐あって、目的の学校に合格しました。合格後、挨拶に来られ、「実は泣きながら帰ったことがあるんです」と告白されました。それは、数学の授業で、どうしても連立方程式が理解できず、悔しくて帰り道で泣いてしまったそうです。

 そんなMさんですが、数年前に私の事務所に来てくれました。相変わらず元気な様子でした。来られたのは、ケアマネージャーの試験を受けたいので、今度はケアマネージャー受験講座に通いたいとのことでした。

 

ジプシー生活

 その後、事務所を美容室を経営されている方に賃貸し、学習室及び、家庭教師の派遣をやめました。次のことを模索している間も、看護学校受験講座は続けました。主に、公的な会館を使用しての授業でした。

 その時も、来られる方はたいてい離婚経験者でした。10人前後の授業でしたが、その中で45歳のIさんが授業を受けていました。Iさんは病院でヘルパーとして働いていましたが、Iさん自身限界を感じて、看護師を目指したようです。「ヘルパーの仕事は好きだし、続けていきたいけれど、医療の知識がないと、良い介護はできない」と思い、一念発起して、看護師を目指したのです。

 とても熱心で、勉強はよくできました。実力的には申し分ありませんでした。

 しかし、岸和田医師会は、不合格となってしまいました。Iさんは試験の手ごたえは十分あったそうです。不合格になったのは、年齢のためだと感じていたようです。そのため、岸和田医師会の2次募集は受験しませんでした。

 その後、泉大津医師会を受験され、こちらは、合格しました。

 噂で聞いたのですが、Iさんは泉大津医師会をトップで卒業されたそうです。その後、Iさんと同じ病院で働いていたUさんが、受講生として来られました。Iさんには、私の授業を受けていることは内緒にしていたようですが、Iさんからいろいろなアドバイスを熱心にしていただいたと聞いています。

 そのUさんから電話がありました。Uさんは、泉大津医師会に合格されたのですが、その後結婚し学校をやめたそうです。しかし、また学校に行きたいので、授業を受講したいとの内容でした。

 それだけでなく、小学校にいている子供の勉強も見てもらえないだろうかとの相談も受けました。しかし、当時は宝塚におり、Uさんの家(泉大津)とは離れており、お受けできませんでした。子どもの勉強を見ることは大人と違う楽しさがあります。

 

カラオケボックスで授業

 この当時、自分の教室を持っていなかったので、かなり不便な思いをしました。授業の都度、市民会館等を借りての授業でしたので、借りられないこともあるのです。

 あるとき、受講生から補習をしてほしいと言われたのですが、その時、日時が上手く合わず、受講生にどこか場所を探してほしいと依頼したところ、カラオケボックスを予約してくれました。カラオケボックスで、飲み物だけを注文して、歌はうたわないで授業をしました。歌も歌わないで、結構盛り上がりました。

なかなか得難い経験です。もし、子ども相手の勉強でこんなところを利用したら、なんて言われるでしょう。

 また受講生が合格していき、1人だけ残った時、大きな部屋は却って寂しいので、ファミリーレストランで勉強したことも何度かあります。

 その気になれば、勉強はどこでもできるのです。集中していれば、周りの喧騒も気になりません。心地よいバックグランドミュージックです。

 

事務所・移転

 2000年の1月、これといった目的もなく、光明池(和泉市ですが泉北ニュータウン)で素敵な部屋を借りました。元ダンス教室をしていた場所で、壁一面に鏡があり、小さなステージ用の台とミラーボールがあり、ミニキッチンも完備で窓は羽目殺しで大きく、外がよく見えるお洒落なところです。床も上等なフローリングです。

 ここを事務所にし、机を置くと、20人くらいが入る教室となりました。いくつかのミニコミ誌に准看護学校受験講座の広告を入れてみました。広告を入れてもすぐに受講生が来るほど、世の中は甘くありません。

 1人ぼんやりと応接用のいすに座り、電話番をしている状況です。とにかく退屈でした。家から近かったので、とても便利ですし、泉北高速線の光明池駅からも徒歩5分くらいで立地も良いところです。また子ども相手の学習塾でもしようかなとぼんやりと考えたり、何か他の仕事がないかなと空想する日々でした。

 

雨の日に遠方からアポなしで

 例によって、その日もぼんやりしていました。雨が降り肌寒い日でした。その時、ドアをノックする音。1人の女性(Sさん)が訪ねてきました。泉佐野(関西国際空港があるところ)から電車で来たそうです。泉佐野からだと電車だとかなり不便で、1時間以上かかります。そしてアポなしです。偶々事務所にいましたが、留守をしていることも多いので、ラッキーでした。

 話を聞くと病院に勤めているが、小さな子供がいるので、看護師になりたいとのことでした。年齢は40歳くらいの方でした。それで、私の講座を知り、わざわざ来たとのことでした。少し内気な方でした。

 その年、このことがきっかけで、開講すると、50人以上の受講生が集まり、光明池だけでなく、泉佐野にある泉の森ホールでも授業を行うようになっていました。1クラス20人くらいまでで、3クラス開講したと思います。

 Sさんはとても熱心で、真剣に勉強していました。ところが真面目すぎて、若干融通が利かないのです。実力は問題ありません。しかし、岸和田医師会の一次試験は不合格でした。   

原因を他の受講生から聞いてみるとどうも面接に問題があったようです。面接の時、前もって、聞かれることを想定し、暗記していったようです。そして、面接では頭が真っ白になり、何もしゃべれなかったそうです。

その後、二次募集で岸和田医師会に再挑戦し、合格されました。

その時同期で岸和田医師会に合格されたAさんは、岸和田医師会をトップで卒業されています。

 

鈴木軍団へ

 その後、受講生が増え、また2000年からケアマンージャー受験講座を新たに開講し、さらに介護福祉士受験講座・福祉住環境コーディネーター受験講座と開講していきました。講師は私一人です。

 准看護学校受験講座は、毎年多くの受講生が来るようになりました。大阪南部での開講ですから、受験する学校は必然的に決まってきます。どうしても岸和田医師会・泉大津医師会・堺医師会が中心となり、そのほかは、大阪府医師会・泉佐野医師会・河内長野医師会(この3校は今はありません)と病院系列の学校となります。

 この中で、岸和田医師会・泉大津医師会・堺医師会には、毎年多くの受講生が合格していきました。准看護学校の定員は少なく、50人~100人くらいです。その中で、鈴木アカデミーからの合格者は、多い時は1校で20人前後です。毎年10人以上は合格していました。そのため、岸和田医師会・泉大津医師会・堺医師会では、「鈴木軍団」と呼ばれていたそうです。

 この時期に指導させていただいた受講生には多くの思い出があります。いくつか紹介してみましょう。

 

看護師への道 事情のある過去

彼氏か

 5月の爽やかな季節でした。アポなしで若い男性が、准看護学校受験講座について聞きたいとやってきました。詳しく説明し終えると、玄関に若い女性がいました。まだ二十歳くらいでジーパンにトレーナーというラフな服装でした。とてもかわいい方でしたが、ちょっと暗い表情でした。無口のようで内気な感じがしました。それで彼氏が代わりに事務所に入ってきて内容を聞きに来たようでした。

 その後、彼女(Mさん)は泉佐野市にある泉の森ホールで開催していた講座に参加されました。当時、事務所での授業と、泉佐野にある泉の森ホールの2か所で授業を行っていました。事務所から車で1時間弱のところです。

 Mさんは、授業でもおとなしく、とても地味な感じがしました。欠席はしないのですが、それ程積極的な感じがしないのです。とてもかわいい方なのに、表情が暗く、少し思いつめたような感じでした。

 そのMさんが冬のある日、授業の後、ノートを持ってきて、私に読んでほしいと言いました。何気なく受け取り、自宅で読ませていただきました。そこには、離婚したことが書いてありました。それだけでなく、子どももいるらしく、若干障害を持った子どもだったようです。そして親権は父親が取ったということが書かれていました。そしてノートには、看護師になって、子どもの親権を取り戻したいと書かれていました。

 私はMさんにそんな過去があることは全く知りませんでした。そしてそれを打ち明けられ、どのように対処して良いか分かりませんでした。今まで通りさりげなく、Mさんを指導し、他の受講生と同じように扱っていました。

 その後、Mさんは努力が実り、その年、泉大津医師会に合格しました。

 暫くして、泉大津で産婦人科を経営している院長のS先生からお電話をいただき、泉大津医師会の准看護学校に行かれている方を紹介してほしいと頼まれ、私はMさんを紹介しました。MさんはS先生に気に入られたようで、後日、とてもよくしていただき、給料もたくさんいただいたし、仕事中も時間が有るときは勉強してもかまわないと言われたと感謝していました。その頃一度Mさんに会いましたが、見違えるほど明るくなっていました。資格を取る、あるいは目的とする試験に合格するということは、その方の生き方に自信を与えるのですね。見ていて、とてもうれしくなりました。

 そして、Mさんは学校卒卒業後もS先生の病院で働いていましたが、一度、事務所に合格体験談をお話ししに来てくれました。その日は土砂降りの大雨だったのですが、気持ちよく来ていただきました。

 その後、一緒に食事に行ったのですが、「何が食べたい?」と私が聞くと大きな声で「お寿司!」と叫ばれました。あのMさんが、洗練された服装をして、明るい楽しそうな表情で私にいろいろなことをお話ししてくれました。そしてあの時一緒に来てくれた彼氏とは今もお付き合いをしていて、結婚する予定と聞きました。

 また人工透析に関心が有り、そちらの仕事をしてみたいので、S先生の病院は近いうちにやめる予定と聞きました。

 今はきっと幸せにしていることでしょう。

男?

 事務所でぼんやりしていると、ちょっと小太りの若い男性が、来ました。看護師になりたいので、講座に通いたいという話でした。

 「男の人でもなれますか?」と聞くので、「なれますよ」と答えました。少し安心したようです。でも話をしているとちょっとおかしいのです。

 詳しく説明し終えると、やにわに「僕、女なんです!」とポツリ。一瞬耳を疑いました。でもそう言われれば、体型が丸い感じがするなと思いました。

 そして、どうしても女として生きていけない!看護学校も男として行きたいというのです。「看護学校は男よりも女の方が受け入れてくれやすいから、女として受験したらどうですか?」とわけのわからない説得をしていました。戸籍も女だと言います。今だったら、戸籍の性を変えることは可能ですが、当時はまだそういった制度はありませんでした。最近問題となっている性同一性障害ですね。

 いろいろとお話をした後、彼?彼女は寂しそうに帰っていきました。そして結局それっきり来ませんでした。

 最近性同一性障害の方の話を聞くたびに、本人にとっては深刻な問題なんだと考え込んでしまいます。ちゃんとした仕事に就きたいけれどつけないもどかしさが有るのでしょうね。

 (※戸籍で姓を変更することはできます。ただ、女性から男性に変わっても子どもを実

子にできるかは問題があります。養子は認められています。)

和歌山から高速で

 准看護学校受験のための塾や予備校はあまりないようです。大阪でも少ないですから、地方に行くとほとんどないのでしょう。そんな時、どこで鈴木アカデミー(当時の名称)を見つけたのか和歌山から来られた方がいます。どうしても看護師になりたかったのでしょうね。何と車で高速道路を利用して、通われました。

 彼女(Nさん)は二児の母でしたが、ユニークなのは、かなりハッタリをかませられることでしょうか。Nさんは大阪府医師会の一次試験に合格しました。そして面接試験です。まず、試験官が「お子さんはいますね?」と聞くと「いません」ときっぱり。その後、「和歌山から天王寺は遠いですね?」と聞かれるとこれまた「いえ、家から和歌山駅まで徒歩5分なので、通えます」と平然と答えたそうです。本当は1時間近くかかるらしいのです。

 Nさんは、見事に合格しました。

 Nさんの話を聞いてから、受講生には、面接では嘘を行っても大丈夫と指導するようになりました。そしてその恩恵を被った方は相当いると思います。

礼儀正しい中国人

 ちょっとたどたどしい日本語で、電話があり、事務所に来られたCさん。日本に来て4年目で、日本で医療の勉強をしたいので看護学校に行きたいとのことでした。Cさんのご主人は、日本の大学で教授をしており、Cさん自身は、中国で看護師として働いていたそうです。

 中国での看護師免許は日本では通用しないので、日本で看護師として働くためには、日本で資格を取得しなければなりません。Cさんは、私の講座を受講することになりました。Cさんはとても優秀で、数学は本当に良くできました。しかし国語は、漢字と文法は分かるけれど、長文読解は、難しいようでした。なんせ、日本に来て4年です。私たちが反対の立場だったら、他国語の試験はどれだけ難しいことでしょう。

 今EPAとかでフィリピンやインドネシアから看護師、介護福祉士等の国家試験を受ける方がいますが、極めて低い合格率です。そして国家試験はマークシートだから、意味が分かれば、答えられますが、通常の国語の試験は日本語で解答しなければなりません。Cさんがどれほど国語の試験で苦労したか分かるでしょうか?

 実際、数学は90点以上取れるのですが、国語は30点くらいが限界でした。

 Cさんはまず堺医師会を受験しましたが不合格でした。その後、私の事務所に来て、面接の特訓をしてほしいと頼まれました。Cさんは堺医師会の面接で、試験官が何を質問しているのかよく分からなかったそうです。それで面接で答えられるようにしてほしいと来たのです。

 河内長野医師会の一次試験は合格しましたので、面接が関門です。そこで、一計を案じ、試験官がどんな質問をしてくるか予想し、それに対する模範的な解答を用意することにしました。

 Cさんにはお子さんがいました。そこで多分子どものことを聞かれると考え、「子どもが病気をしたらどうしますか?」と聞かれた時の答えを考えました。Cさんにお母さん(おばあちゃん)はいますかと聞くと中国で生活していると言います。

 そこで、こう答えましょうと提案しました。「私が試験に合格したら、中国からおばあちゃんが来ることになっているので、子どもの面倒はおばあちゃんが見てくれる」と答えましょうと。

 そして試験です。本当に子どものことが聞かれたそうです。そして用意してあった通りの回答をしたそうです。Cさんは河内長野医師会に合格しました。

 合格祝賀会を私の事務所でしたのですが、Cさんはそのお子さんを連れて、手作りのケーキを持ってきてくれました。

 Cさんに感心したのは、面接の特訓の時に、ちゃんとお礼まで用意してくれていたのです。もちろん丁寧に辞退しましたが。

 今中国と日本は微妙な関係になっており、中国人の民度の低さや、自分勝手なことばかり主張するとか批判されていますが、Cさんは日本人より日本人らしい細やかな神経の持ち主でした。

涙は女の武器

 堺から来られたSさん。かなり切迫した雰囲気を漂わせていました。離婚して堺市内の病院に勤務していました。子どもが1人います。性格は勝気です。

 仕事が終わってから、車で通われていました。泉北1号線をぶっ飛ばしてくるようです。授業に遅刻しないように必死でした。あるとき、スピード違反で検挙されたようで、泣きそうな顔でした。

 そんなSさん。とにかく合格したい一心でした。そして堺医師会での面接です。試験官に「どうしても堺医師会で勉強したいのです」と涙ながらに訴えました。このことが功を奏したのか、もともと合格できるだけの実力があったからなのか分かりません。堺医師会に無事合格しました。

 これでめでたし、めでたしなのですが、そうはいきませんでした。

 Sさんは大阪府医師会も受験しており、こちらも合格通知が来たのです。Sさんは迷わず、大阪府医師会の入学手続きを済ませ、堺医師会は、入学を辞退しました。堺医師会の面接で流した涙は、一体何だったのでしょうか?

 合格後挨拶に来られ、「久しぶりに子どもと布団で寝ました」と述懐していました。受験前は、机で寝てしまうことがほとんどだったそうです。Sさんの合格へのすさまじい執念に頭が下がります。

親子で

 上品な奥さまという感じのHさん。離婚調停中で実家に戻り、お子さまが2人いました。中学3年生の男の子と小学4年生の女の子です。

 当時仕事はヘルパーをしており、仕事の合間を縫って、勉強に来られていました。相当な頑張り屋さんです。年齢は40歳過ぎだったと記憶しています。

 Hさんから、授業に子どもを連れてきても良いか相談を受けました。家で留守番をさせておくのは心配だとのことでした。静かにしていてくれるなら問題はないですよ、ということでお子さまを連れてくることを承諾しました。

 それから毎回お子さんも一緒に来るようになりましたが、2人の子供はお母さんが授業を受けている教室で静かに本を読んでいました。ときどき妹が寝入ってしまうことがある程度で、本当にお利口さんでした。2時間もの間、静かにしているのは、大変なことだと思うのです。

 Hさんも必死に勉強をしていました。その熱意は伝わってきます。あるとき、ちょっとお話しする時間があって、長男が、家に帰るとお風呂の掃除をしていてくれたり、ご飯を作ってくれたりしてくれる。そして私がぼんやりしていると「勉強するように」と発破をかけられると、楽しそうに言ってくれました。

 その後、Hさんは堺医師会に軽く合格しました。それだけでなく、長男が入試で生野高校(大阪第9学区のトップ校 で、サッカーの元日本代表キャプテン宮本の出身校)に合格したと伺いました。

 常日頃、私は、子どもに勉強させたかったら、お母さんが勉強したほうが効果的だと説いてきましたが、その通りの結果が出ました。

 それだけではありません。2年後、Hさんは 堺医師会の准看護学校をトップで卒業され、そして推薦で堺医師会の進学コースで正看護学校に進みました。

 Hさんと同期で、Yさんという女性も来られていました。Yさんも何度かお子さんを連れてきました。男の子でした。やはり中学3年生です。そしてお母さんと一緒に授業を受けていました。入試の内容が重なるので、一緒に授業を受けてもいいと私が許可したのです。

 そのHさんですが、彼女も堺医師会に合格しました。それもトップでの合格です。そしてHさんも2年後推薦で正看護学校に進学されました。そして、正看護学校に進学された後、娘さんを連れて事務所にやってきました。娘さんは、事情があって、高校を中退し、看護師を目指すので、講座に通いたいとのことでした。

 正直、高校中退の場合、若い年齢(25歳くらい以上なら問題ありません)だと、学校側が合格させてくれないケースが多いので、ちょっと心配しました。しかし、真剣に勉強した甲斐あって、泉大津医師会に合格しました。親子で、看護学校での勉強です。

 

 その後も親子で授業に参加されたケースはかなりあります。お母さんが子どもに勉強している姿を見せることはとても良いことだと思います。お子さんをお持ちの方、お子さんのためにも勉強してみませんか?

万歳をしながら!

 AさんとIさん。仲の良いお友達同士です。2人で説明を聞きに来られ、2人で申し込まれました。授業もいつも2人一緒です。勉強は、Iさんの方が理解が早く、Aさんは、若干、理解に難がありました。2人とも結婚していて、子どもがいます。

 このAさん、とても明るい性格なのですが、ちょっとやんちゃな感じです。お調子者で軽い感じでしょうか。

 いつも2人で授業に参加しているのですが、2人でいつも離婚の話をしています。どうも2人とも離婚を前提に看護師を目指しているようです。このことは、当時私も驚かなくなっていました。

 そして、ある日、Aさんは満面の笑みで万歳をしながら、教室に入ってきました。どうやら離婚が成立したようです。深刻さなど全くないのです。私など、離婚は、やはり人生の1つの失敗であり、深刻なものととらえていましたが、その時人生観が変わったように思います。女性にとっては、離婚なんて軽いことなんだ。

 お友達のIさんは、Aさんの様子を見て、羨ましがり、「いいな」を連発していました。その後は、Iさんはなんとなく元気がなくなり、ちょっと沈んだ雰囲気です。授業の休憩中のおしゃべりの時も、やたらとAさんのことを羨ましがっているのです。「私もしたい」と。

 そして、2ヶ月後くらいの授業の時、Iさんは晴れ晴れとした顔つきでやってきました。Iさんも離婚したのです。AさんIさん2人とも、本当に楽しそうにしゃべっています。何も離婚まで一緒にすることはないだろうにと私は思ってしまいました。

 さて、入試ですが、Iさんはもともと実力があったので、堺医師会に合格してきました。問題は、Aさんです。離婚成立後は居酒屋でアルバイトをしていました。かなりやんちゃな方なので、生活が乱れないかと心配でした。勉強もそれほど進んでいません。

 案の定、堺医師会は不合格。合格は難しいだろうと思っていたので、私は当然の結果だと思っていました。しかしAさんはかなりのショックだったようです。

 その後、Iさんにも発破をかけられ、真剣に勉強をするようになっていました。離婚は成立したけれど、看護師になれなかったら、生活が成り立ちません。子どももいるのです。真剣にならざるを得ません。IさんもAさんのことが心配で、自分が合格した後も、授業に出席していました。たいていの受講生は、合格すると残りの授業には参加しません。でもIさんは、友達のAさんのために、一緒に授業に出席し、Aさんのサポートをしていました。

 約1カ月後、泉大津医師会に試験です。当時鈴木まなび塾から泉大津医師会は不合格者はあまり出ていません。しかし、結果は不合格。本人よりも友達のIさんの方が、ショックを受けています。私もどうしたものか、対応に困りました。

 ところがその後、泉大津医師会から補欠合格の知らせが来ました。入学辞退者が出たようです。本人よりも友人のIさんの方が喜んでいました。

宝塚へ

 准看護学校受験講座は鈴木まなび塾(当時は鈴木アカデミー)の看板講座となっていました。そして2000年から始めたケアマネージャー受験講座も4クラス開講し、准看護学校受験講座と同じかそれ以上の受講生が集まるようになっていました。更に介護福祉士受験講座も開講し、こちらもそれなりの受講生が集まるようになっていました。

 よくいえば、仕事が軌道に乗り、大変順調だった時期です。もちろんこれだけの受講生を指導するには、私一人ではできません。その頃は、私は、ケアマネージャー受験講座と介護福祉士受験講座に専念し、准看護学校受験講座は、2人の女性講師にお願いしていました。私が、家庭教師の派遣を始めたころから、講師として働いてくれていた方で、年齢も私とほぼ同じ方です。亀井先生と永田先生です。今も指導してくれています。

 2人とも熱心で、受講生の評判もよく、私も安心して任せられる状況でした。講師の亀井・永田の両先生もこの講座を楽しみにしているようでした。子ども相手に指導するのとは違って、受講生の真剣な態度が、講師のやりがいに通じているのだと思います。ときどき苦笑しながら、携帯に人生相談のような話をされると言っていました。多分同棲ということで悩みを打ち明けやすいのでしょう。

 そんなある時、引っ越しの話が持ち上がってきました。きっかけは子どもの受験です。

 我が家は3人娘で、当時長女と次女は大阪の大学に通っていました。三女は高校3年生です。三女はどちらかというと余り丈夫ではなく、体力に難がありました。大阪南部には余り大学がなく(すぐ近くに桃山大学はあるのですが、ごめんなさい)、自宅からだとどこの大学も遠方になります。また体力がないので、三女には私立大学でもかまわないと言ったところ「関学(関西学院大学)に行く」と答えました。

 実は私も関学出身なのです。私も学生時代2時間以上かけて自宅から通っていましたが、片道2時間はかなりハードでした。2年生の時からは下宿をしたことが有ります。当時は3畳一間で1万円くらいでした。

 そこで家内と相談しました。三女が関学に行ったら、下宿をさせるという案が出ましたが、今の時代、下宿だと相当な費用がかかるし、心配だと家内は言います。そして、1人で下宿させるより、5人で引っ越した方が安く済むのではと言われ、それもそうだと簡単に納得して、引っ越すことに決めました。夫婦2人とも、何とお調子者でしょう。

 

親子でパート2

 20年以上講座を開講していますと、かつてお母さんが講座に来ていて、そのお子さんが来られるというケースはかなりあります。

 驚いたのは、私が宝塚に引っ越し、宝塚で講座を開講した時、30歳代のTさんが来られました。話を聞くと、私が最初和泉市の鶴山台で授業をしていたころ、お母さんが、講座に来ていたとのことでした。そして私が宝塚で開講するのを知って、お母さんから、紹介されたという話でした。Tさんはお母さんが准看護師としていきいきとして働いているのを見て看護師になる決心をしたようです。

 しかし、Tさんは受講されるまで相当悩んでいました。お子さんがいなかったので、子づくりとの兼ね合いです。でもできたらできた時のことと決心され、受講しました。Tさんは、ご縁があるのか出身高校は私と同じでした。

 まさか宝塚で和泉市出身の方が来るとは思っていませんでした。そしてお母さんが私の講座を受けていたとは不思議なご縁です。

 

※後日談

 5年前にTさんと一緒に通っていた方(今年看護師国家試験に合格し、正看護師として働き始めました)がお子さんを連れてこられました。「ママが教えてもらっていた先生に教えてもらいたい」と涙が出るようなことを言ってくれたそうです。それでお子さんが来られ、今年の4月から我が家に勉強に来ています。その時、Tさんの話が出ました。当時の受講生の方たち同士頻繁に情報交換をしているようです。

 そのTさんですが、やはり進学コースで正看護学校に進学したのですが、妊娠出産し、現在休学中だそうです。あれだけ子どもをほしがっていたのですから、1年ぐらいの休学は大丈夫でしょう。きっと幸せをかみしめているのではないでしょうか?

 

中略

 

再び大阪へ

 2016年、10年間板宝塚から再び大阪に戻ってきました。これから新しい鈴木アカデミーとして、着実な一歩を踏み出そうと思っています。

 以前住んでいたところとは違う、富田林に引っ越し、こちらで、これから、看護師になる方のお手伝いだけでなく、その他の事業も行っていきます。

 すでにかつての卒業生の方達からも声をかけていただき、心強い思いです。

 

 続く

 

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